身延山・久遠寺とは
身延山・久遠寺(くおんじ)は、山梨県南巨摩郡身延町にある、日蓮宗の総本山の寺院になります。
鎌倉時代の1274年に、地元の鎌倉御家人・南部実長が、佐渡から鎌倉に戻った日蓮を招いたのがはじまりになります。
日蓮上人は、西谷に草庵を構えると、南無阿弥陀仏の日蓮宗の布教と、弟子の養育を行いました。
また、身延山をインドの霊鷲山に見立て、信仰の山としています。
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1281年、 大坊が完成すると、日蓮上人は身延山妙法華院久遠寺と命名したとされます。
しかし、1282年、病気の療養のため常陸の温泉へと向かいましたが、途中、武蔵・の池上宗仲の邸宅にて日蓮は死去してしまいました。
以後も、身延山は日蓮宗では最高の聖地になっており、日蓮の遺骨は歴代の法主によって、守られてきました。
室町時代の1475年、11世法主・日朝のとき、手狭になった西谷から、久遠寺は現在地に伽藍が移されました。
戦国時代には、甲斐・武田家一族で筆頭とも言える甲斐・下山城主の穴山信君などから庇護を受け、門前町も発展しました。
1572年、武田信玄は身延山を城塞にしようと考えたようで、久遠寺に明け渡すように命じましたが、拒否されたため、身延山攻めを開始したようです。
実は、身延山の山頂にある「奥の院」を訪れた際に、なんでこんな山のてっぺんなのに、土塁が巡らされているのかな?と疑問に感じていたようですが、このように攻撃を受けそうになった模様です。
武田勢は早川のほうから攻め登ろうとしたようですが、七面山のほうから雲が湧き出て、早川が増水し、軍勢は押し流されたと言います。
武田勝頼も命を落としそうになり、武田信玄には、七面大明神が放った大矢を額に受けたとあります。
そのため、武田勢は躑躅ヶ崎館に撤退し、久遠寺と和睦すると、武田信玄は身延山・久遠寺を信仰し身延山・武井坊を祈願所にしたと伝わります。
と言うより、加藤清正を祀っている、身延山清正公堂さんのサイトにそのように明記されておりましたが、もちろん諸説あるようです。
実際、武田信玄筆の祈願状が、身延山宝物館には収蔵されているそうです。
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江戸時代に入ると、日蓮宗は徳川家からも保護を受け、1712年には、133坊と久遠寺は最盛期を迎えました。
しかし、度重なる火災が相次ぎ、明治8年(1875年)1月には、伽藍や寺宝を焼き尽くしましたが、その後の復興を遂げています。
久遠寺の境内はとても広く、伽藍などの建物はみんな立派で圧倒されます。
これだけ大きな建物が多いと言う事は、信者の方もたくさんおられるのでしょう。
なお、戦国時代の1571年に、織田信長が比叡山を焼き討ちすると、延暦寺の覚恕法親王(正親町天皇の弟)は、武田信玄に再興を願ったため、身延山がその移転候補地にもなったそうです。
実現はしませんでしたが、もし、天台宗の延暦寺が移転していたら、また違った身延山になっていたことでしょう。
身延山の山頂には奥の院があり、身延山ロープウェイで登ることができます。
交通アクセスや駐車場など、詳しくは、身延山のページにてご確認賜りますと幸いです。
お守りコーナーでは、交通安全のステッカーなど、ゆるキャン△グッズとしてあります。
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南無阿弥陀仏は浄土宗。日蓮の信仰は妙法蓮華経ですよ。