北陸・金沢の「長町武家屋敷界隈」は、石川県金沢市長町にある加賀藩の武家屋敷が残る地区です。
日本の多くの古い町並みは、太平洋戦争でのアメリカ空軍の空襲にて、灰になり消滅しました。
北陸では、福井市・富山市などはB-29の空襲を受けました。
金沢市でも毎日のように空襲警報のサイレンが鳴ったと言いますが、1発の焼夷弾も落ちていません。
そのため、古い街並みや寺院が残ることになり、現在、伝統環境保存区域および景観地区に指定されています。
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空襲が無かったのは、金沢城跡に本部を構えていた、日本陸軍・第9師団は、台湾に展開していて、不在だったのと、石川県には工場が少なかったため、他の地域のほうが優先度が高いうちに戦争が終わったためと推測されます。(京都同様に金沢の寺院などを守ったとする説もあります。)
もっとも、第9師団の2万5000人の兵士は、太平洋戦争中、1度も交戦することなく、終戦を迎えています。
これらの奇跡は、加賀100万石を築いた前田利家や、尾山神社の御加護としか、思えない私がいます。
このような理由から、金沢城下の武家屋敷は、市内の数箇所に点在して残っています。
普通の城跡の城下ですと、武家屋敷が集中して残っていたとしても、1箇所なのですが、金沢では別途、金沢三茶屋街(主計町茶屋街、ひがし茶屋街、にし茶屋街)も、古い街並みを残しています。
この記事でご紹介する金沢「長町武家屋敷」は、畠山七人衆で、穴水城3万3000石にて前田家の重臣(加賀八家のひとつ)となった長連龍(ちょう-つらたつ)の屋敷があったことから「長町」と呼ばれていますが、下記は「野村家屋敷」です。
野村家は、前田利家の重臣で1200石となる野村信貞(野村伝兵衛信貞)の屋敷となります。
野村信貞は前田家の精鋭・馬廻衆でして、1584年に佐々成政が能登・末森城を攻めた際には、救援に向かった前田利家の家臣で、一番槍の手柄をあげた猛将です。
残念ながら屋敷は取り壊されており、現在の建物は「北前船の商人の豪邸の一部」を移築したものとなります。
今回の訪問時には、すでに夕方で閉まっていたのですが、庭園は樹齢400年以上といわれる山桃の木や、曲水・落水・名石を配しており、外国の観光雑誌などからも、高い評価を得ているようです。
この長町武家屋敷の付近は、加賀藩の上流藩士・中流藩士の侍屋敷がありました。
冬には雪や凍結から土塀を守るため「こも掛け」も行われるそうです。
金沢城じたいは、明治14年の火災でほとんど焼けてしまいましたが、近年では、復元された建物も増えてきました。
時間が許せば、武家屋敷の近くにある「尾山神社」などもセットで、どうぞ。
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長町武家屋敷への交通アクセス・行き方ですが、JR北陸新幹線の金沢駅より北鉄バスにて香林坊方面(城下まち金沢周遊バス・兼六園シャトル・北陸鉄道路線バス・西日本JRバス)にて所要10分、香林坊バス停から徒歩7分となります。
他には、まちバス「香林坊大和・アトリオ」「香林坊東急スクエア・日銀前」バス停から徒歩約5分、一番便利なのは、金沢ふらっとバス長町ルート「長町武家屋敷跡」バス停からですと、すぐになります。
クルマの場合、周辺にコインパーキングがありますので、そんなに困ることはないでしょう。
ただし、一方通行が多いですので、運転にはご注意願います。
また、金沢レンタサイクル「まちのり」を利用しても観光には便利でしょう。
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