旧幕府軍が鳥羽伏見の戦いで敗れ、1868年、新政府軍は江戸へ進軍しましたが、このとき、江戸の街を戦火から救ったのは、幕臣・勝海舟と新政府軍・西郷隆盛の2人と言うことになります。
そして、明治となると、勝海舟の洗足池畔の別邸(洗足軒)にて、勝海舟と西郷隆盛は日本の将来について歓談したと伝わります。
しかし、その西郷隆盛も西南戦争で士族のために戦い、命を絶ちました。
まさに盟友であった勝海舟は、西郷隆盛(西郷吉之助)の死を悲しみ三回忌に当たり、鎮魂の意味を込めて「西郷隆盛の留魂祠」と西郷隆盛の漢詩「獄中有感」(ごくちゅうかんあり)の碑を建立し、菩提を弔いました。
西郷隆盛留魂碑および留魂祠とも言います。
「留魂」は南洲(西郷隆盛)の『獄中有感』の結句からきています。
もとは薬妙寺(葛飾区東四ツ木)に自費で明治12年(1879年)に建立したものとされます。
刻まれている詩は、西郷隆盛が文久3年(1863年)に罪人として沖永良部島に流された時に読んだ詩とのことです。
大久保利通が所有していたようですが、のちに勝海舟の手に渡りました。
そして、石匠として有名だった谷中の廣羣鶴に頼み浄光寺に詩碑を建てた言うことになります。
のち荒川放水路の建設に伴い、大正2年(1913年)に、勝海舟の別邸があった洗足邸の敷地内に移設されました。
この移設の経緯は、勝海舟の門下生である富田鐵之助が、傍らの碑に誌しています。
下記は南洲先生建碑記です。
なお、西郷隆盛の留魂祠があるすぐ脇には、勝海舟夫妻の墓があります。
いずれも、現在の洗足池公園の中となります。
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維新の両雄は、死後もここ東京から日本の将来を案じ、語りあっているのだろうと感じます。
交通アクセスは、東急・池上線の「洗足池」にて下車して、徒歩5分となります。
洗足駅から中原街道を渡って正面には、洗足池のボート乗り場がありますが、そこからは公園に入れないようですので、洗足池の東方向に進んで、バス折り返し場の脇から細い道を北へと入り、図書館の右横を抜けていくと、公園に入れまして、すぐとなります。
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