鞆の浦にある安国寺(あんこくじ)は、広島県福山市鞆町後地にある臨済宗妙心寺派の寺院です。
開山したのは、信州・松本出身の心地覚心(しんち-かくしん、無本覚心)で、亀山上皇、後醍醐天皇より法燈禅師、法燈円明国師と諡されました。
約5年ほど、宋にも渡ったあと、高野山の金剛三昧院に戻った高僧で、信州味噌の発明者としても知られます。
この法灯禅師が1273年に釈迦堂(仏殿)建立したのが始まりとなります。
七堂伽藍を持ち、鞆の浦の3分の1ほどを寺領にした大寺院だったようですが、南北朝時代には度重なる戦火で、その後、荒れていたようです。
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足利尊氏が1339年に再興し、戦国時代には安国寺と呼ばれるようになり、1579年から毛利輝元の重臣・安国寺恵瓊が再興しました。
なんでも、京都・南禅寺からの帰路途中に鞆の浦に寄港したようです。
その室町時代中期建立の釈迦堂(仏殿)は国の重要文化財です。
釈迦堂(仏殿)の中にある、下記の2点も重文となります。
まずは阿弥陀三尊像(重文)です。
上記の阿弥陀三尊像の手前におられるのが、法燈国師坐像(法燈国師69歳の寿像)で、これも重文となります。
鎌倉時代の1275年に作られたと言う、年代が明らかな日本最古の頂相彫刻であり、最古の寿像となります。
他にもありまして、下記は愚谷和尚像です。
下記は、朝鮮渡来の釈迦堂守護神とありました。
枯山水の庭園、安国寺庭園もなかなか立派なようですが、訪問した際には「工事中」でしたので、遠慮させて頂きました。
安国寺恵瓊は、豊臣秀吉からひとりの大名として扱われ、伊予6万石となります。
そのあと、1591年、この備後・安国寺に1万1500石もの寺領を寄進しました。
朝鮮攻めの際に、戦利品として朝鮮木を大量に持ち帰った安国寺恵瓊は、安芸・安国寺を改良したのち、1599年に名匠・左甚五郎を招いて焼けていた釈迦堂を再建したと伝わります。
この時、枯山水には蘇鉄(ソテツ)も植樹されたとのことです。
江戸時代になると、福山藩の2代藩主・水野勝俊が子安観音堂、水野多門の五輪塔を建立しました。
回廊式の本堂である法堂は、大正時代の1920年12月4日朝8時、本堂の下を寝ぐらにしていた「亀サ」が、暖をとるために焚き火をし、灰燼と化し、今では跡地を示す石跡だけが残されているそうです。
鞆の浦「備後安国寺」は有料拝観で大人150円 大学生100円 高校生以下無料となっておりますが、書院か庫裏の玄関先にある無人の拝観料BOXに投入する方式です。
ただし、釈迦堂の内部にある重文の像なども、スリッパに履き替えて見学可能になっています。
拝観時間は朝8時~17時(冬期は8時30分~16時30分)の模様で、定休日は不明です。
京都のお寺さんにいくと、だいたい500円ですが、安国寺はとても良心的で見所満載ですので、オススメです。
交通アクセスですが、仙酔島へ渡れる「いろは丸」の船乗船場の有料駐車場からですと、歩いて片道10分ほどの距離にあります。
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鞆の浦は、街全体には江戸から明治あたりの建物が残る歴史スポットでもありますので、せっかくですから、散策してみました。
なかなか味わえない、充足した時間を満喫することができました。
鞆の浦の安国寺の入口や近くの駐車場、観光スポットなどは、当方のオリジナル地図にて分かるようにしてあります。
鞆の浦(とものうら)はほんと狭い街ですので、クルマは素直に観光用の有料駐車場に止めたほうが無難です。
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