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2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で大注目の明智光秀に関連・ゆかりの地・ゆかりある史跡や観光スポットの一覧リストです。
まずは、明智光秀が生まれた場所として、諸説ありますが、有力視されている中よりご紹介してみます。
美濃・明知城
前述のとおり、諸説ありますが、岐阜県恵那市明智町の美濃・明知城が、明智光秀の誕生地ともされています。
明知城は、明智氏や遠山氏が城主でしたが、確かな事はよくわかっていません。
ただし、伝承として、明知城からほど近い出城の「千畳敷砦」(落合砦)には、明智光秀の産湯として使用したと言う井戸も現存しています。
また、美濃・遠山氏の菩提寺としても知られる龍護寺には明智光秀の供養塔があります。
更に、山麓には、明智光秀の母ともされる於牧の方の墓もあります。
美濃・明知城は、本丸までハイキング可能です。
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美濃・明知城と千畳敷砦にある光秀産湯の井戸~明智光秀誕生の地なのか?
明智長山城(美濃・明智城)
明智長山城(美濃・明智城)は岐阜県可児市にある明智家の古くからの本拠地と考えられています。
そのため、明智光秀の出身地ではないかともされているのは、まぁ、当たり前の話でして、明智家が斎藤義龍によって攻撃されたのは、この明智長山城と考えられています。
麓には明智家の菩提寺になる天竜寺には、明智一族の墓もあります。
敗戦した明智光秀は、越前に逃れることになりました。
明智長山城は公園整備されており、本丸まで気軽に登れます。
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美濃・明知城と千畳敷砦にある光秀産湯の井戸~明智光秀誕生の地なのか?
妻木城
明智一族とされる妻木氏の本拠地が妻木城で、岐阜県土岐市妻木町にあります。
特に、妻木広忠の娘・妻木煕子は、明智光秀の正室になったとされています。
また、織田信長に仕えた女性「御ツマキ」も、「お妻木」、すなわち妻木氏出身の女性である可能性があります。
妻木城は、少し大変ですが、登ることも可能です。
越前・称念寺
福井の称念寺は、明智光秀が妻と逃れて、浪人生活をしていたときに、身を寄せたと考えられています。
ここでお金にも困る生活をしましたが、やがて、朝倉氏を頼った足利義昭に仕えるようになりました。
明智氏は、そもそも、足利将軍の奉公衆(直属の武士)だったためです。
越前・一乗谷城
朝倉氏を頼った足利義昭が一乗谷城にやってきたため、明智光秀も呼び出されたのか、当時の越前でもっとも栄えていた一乗谷にやってきました。
明智神社 (越前)
一乗谷にて足利義昭に仕えるようになったと考えられている明智光秀でしたが、それでも、よそ者扱いだったようで、屋敷は一山超えた、離れたところに与えられたようです。
その跡地とされる場所に、現在「明智神社」があります。
明智神社と称念寺~あけっつぁまと妻の黒髪~明智光秀の越前時代の居住地
岐阜城
足利義昭と行動を共にした結果、織田信長に仕えるようになった明智光秀は、もちろん、岐阜城下にも屋敷を与えられたと考えられています。
岐阜 大河ドラマ館も開館です。
坂本城
織田家にて頭角を現した明智光秀は、比叡山焼き討ちのあと、琵琶湖の西岸に5万石を得て、坂本城を築城し、城主となりました。
丹波・亀山城
その後、明智光秀は、丹波攻めにも出陣して、丹波・亀山城を築きました。
黒井城の赤井直正には、痛い敗退を喫しましたが、なんとか攻略しています。
本能寺の変の際にも、この丹波・亀山城から軍勢が出発しました。
丹波・亀山城 ここから本能寺の変は始まった 丹波亀岡城の訪問方法
恵林寺
1582年、本能寺の変の3ヶ月前、明智光秀は織田勢の軍勢として甲斐の武田勝頼の攻撃に参加しました。
しかし、師と仰ぐ国師・快川紹喜が、寺を焼かれたて焼死し、比叡山と言い、織田信長の方針に対して、疑問を大きく感じるようになったようです。
本能寺
1582年6月、中国の毛利攻めに加わるように命じられた明智光秀は、兵を京に転進させ、本能寺の織田信長と、二条城の織田信忠を襲撃しました。(本能寺の変)
勝竜寺城
豊臣秀吉の中国大返しに対抗するため、急きょ、明智勢は勝竜寺城に終結し、そして山崎に布陣しました。
山崎の戦いにて敗れたあとも、明智光秀は一旦、勝竜寺城に退却しています。
山崎の戦い
天王山の戦いとも言われる天下分け目の山崎の戦いが行われてましたが、明智勢は敗れました。
恵解山古墳、明智光秀本陣跡、山崎古戦場跡(天王山夢ほたる公園)と史跡が点在しています。
明智藪
勝竜寺城から、僅かな供回りと夜陰に紛れて脱出した明智光秀は、坂本城を目指したと言われています。
しかし、その途中、伏見を抜けたあたりで、一般的には土民の落ち武者狩りにあって、命を落としたとされます。
その場所は「明智藪」と呼ばれており、近くの本経寺に明智光秀供養碑があります。
明智光秀の胴塚「明智光秀之塚」も近くにあります。
明智光秀の首塚(京都)
明智藪にて討たれた明智光秀の首は、明智の家臣が持って逃れたともされており、埋葬された場所の伝承もいくつかあります。
京にて埋葬されたと言う場所は、東山にある明智光秀首塚碑です。
明智光秀の首塚(谷性寺)
明智光秀の首に関しては、諸説あり、家臣が持ち帰って供養した場所のひとつが、丹波の谷性寺になります。
明智光秀の首塚(盛林寺)
もう1箇所、明智光秀の首は、細川ガラシャのもとに届けられたと言う説もあります。
明智一族の墓
明智光秀が坂本城主になった際に、整備したと考えられる、明智一族の供養碑が、比叡山の麓にある西教寺にあります。
のちに、明智光秀の供養碑も建てられたようです。
桔梗塚 (伝・明智光秀の墓)
美濃の山のほうですが、明智光秀が生まれたともされる里があります。
明智光秀は生きていて、この里で隠れていたと言う伝承もあり、伝・明智光秀の墓は「桔梗塚」として現在でも供養されています。
明智光秀公縁の祠
明智光秀公縁の祠は、長野県茅野市にある諏訪大社上社からほど近い場所に、ひっそりとあります。
詳しくは下記をご参照願います。
明智光秀の供養碑(高野山)
高野山には戦国大名の供養碑がたくさんありますが、明智光秀の供養碑もあります。
以上、各リンク先には、各史跡の地図ヘのリンクなどもございます。
・明智光秀とは?数奇なその生涯
・明智光秀を推理する~日本歴史上最大ミステリー
・明智玉子(細川ガラシャ)とキリスト教の関係考察
・明智光秀の妻子まとめ 妻と子供の一覧リスト
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