国の史跡でもあり、世界遺産、日本百名城にも選ばれている首里城(しゅりじょう)をご紹介いたします。
地元ではスイグスクとも言いますが、別名は御城(ウグシク)とも言う山城で、沖縄最大のグスク(城)が首里城となります。
「グスク」と言うのは、沖縄や八重山諸島・奄美諸島などに行くと聞く言葉で、日本本土で言う「お城」と言う意味になります。
日本民族は、中国大陸から朝鮮や沖縄を経て渡ってきたとも考えられていますので、当然、沖縄にも古来より人々が暮らしており、旧石器時代の遺跡「山下洞人」からは約3万2千年前となる日本最古の人骨も発見されています。
そんな沖縄にある首里城の最初の築城は不明ですが、沖縄の三山時代には存在していたもようです。
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三山時代(さんざんじだい)と言うのは、1322年頃から1429年まで、沖縄が、北部の北山(山北)、中部の中山、南部の南山(山南)と3つの王朝に分かれていた時代を差します。
そのうち、英祖王統(1259年頃~1349年)、続いて支配した察度王統(1350年~1405年)までは浦添城が琉球・中山王(ちゅうざんおう)の本拠でした。
そして、尚思紹王と言う人物が出てきます。
尚思紹王と尚巴志王
思紹(ししょう)とも書く尚思紹王(しょう-ししょうおう)は1354年生まれで、父は鮫川大主、母は大城按司の娘だとされ、もともとは山南(南山)国の佐敷按司(佐敷城主)だったようです。
嫡男には、美里子の娘(伝承)との間に1372年に生まれた、尚巴志王(しょう-はしおう)(巴志、尚巴志)がいます。
この長男・尚巴志王はスゴイ人物で、21歳のときに、父から南山の佐敷按司を譲られると、1406年には中山王・武寧を攻撃して察度王統を滅亡させます。
こうして、中山を手に入れた尚巴志王は、中山の本拠を首里城と定めると、自らは王にならず、父・尚思紹を中山王に即位させています。
なんて親孝行なのでしょうね?
しかも、1416年には、北山の今帰仁城も攻撃しています。
この時、伝家の宝刀「千代金丸」(国宝)を所有していたことでも知られる、今帰仁按司の攀安知(はんあんち、はねじ)は、家臣(臣下)である本部平原の裏切りもあって、今帰仁城にて自刃したため、尚巴志王は北山も手に入れました。
1421年に父・尚思紹王が死去すると、翌年、尚巴志王は中山王に即位し、首里城の整備を進めました。
今帰仁城には、妃(妻)・伊波按司の妹との間に生まれていた、次男・尚忠を1422年、北山監守として送っています。
そして、1429年には、南山・島尻大里城の他魯毎(たるみい)を滅ぼし三山統一、初めて琉球(沖縄)を統一することに成功し、第一尚氏王統となりました。
大業を成し遂げた尚巴志王が1439年に亡くなると、次男・尚忠が跡を継ぎ、第2代琉球国王となっています。
第一尚氏王統(1406年~1469年)の琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、中国(明)をはじめ日本、朝鮮、ジャワなどとも交易を盛んにしました。
ただし、1453年には志魯・布里の乱(しろ-ふりのらん)と言う王世子・志魯と王弟・布里が王位を巡った争いも起きており、このとき首里城は焼失したとありますが、3年後には再建されているのを朝鮮の漂流民が報告した記述も見受けられます。
1462年に尚泰久王の重臣である金丸(尚円王)が、王位を継承して第二尚氏王統となっても、首里城は引き続き首都として栄えました。
国王の次に地位が高かったのは、前・元王妃など王族女性から選ばれた聞得大君(キコエオオキミ)となります。
聞得大君は聞得大君御殿(きこえおおきみうどぅん)の神様に仕え、国家安泰、海路安全、五穀豊穣などを祈願しました。
なお、琉球王国では一般民衆の土地私有が認められておらず、農業生産性も低いうえに、税金が極めて高かったため、農民などは貧しい生活を強いられていたと言います。
1609年、慶長の役では、薩摩軍の侵攻を許して城(グスク)が焼失しました。
この時、薩摩藩の軍勢3000に対して、琉球軍は4000の首里親軍(しおりおやいくさ)などが首里城に籠城しましたが敗れ、尚寧王が降伏して首里城は開城しました。
奄美諸島は薩摩藩の直轄地となり、琉球王国は事実上、薩摩藩の従属国となり薩摩藩へ年貢を納める義務を負いつつも、清にも朝貢を続け体裁を保っています。
幕末の1853年には、アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が黒船で那覇港を訪れ、首里城にて開港を求めています。
その後、江戸時代にも何度か焼失しました。
また、太平洋戦争中の沖縄戦では、首里城の地下に地下壕を掘って、日本陸軍第32軍総司令部があったことから、アメリカ海軍の戦艦ミシシッピなどから艦砲射撃を受け焼失したとされます。
令和の時代には入っても、首里城祭りの開催期間中である2019年10月31日2時30分頃出火し、中心部である正殿・北殿・南殿も全焼とのことです。
ほんと、涙が出る思いです。
※守礼門は、だいぶ離れたところにあるため、無事な模様です。
アメリカ軍が沖縄に上陸した際には、日本軍が南部へと移動しました。
この時、首里城の地下では5000人もの重症兵が自決したとも言います。
この沖縄における激しい戦闘では、琉球王国の宝物・文書も、その多くが失われただけでなく、わずかに残された宝物もアメリカ軍によって摂取され、一部はまだ返還されていません。
約73億円かけて復元された首里城(2019年10月焼失)は、昭和33年(1958年)から再建が始まったもので、3度目の火災のあとに再建された1715年~1945年(昭和20年)までの姿が復元されていました。
2006年4月6日には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産に登録されました。
日本本土にある城と違い、中国の影響を大きく受けているのが沖縄の城です。
首里城は沖縄を統一してから大改修されたこともあり、戦闘用の軍事向けの城と言うよりは、政治や宗教の役割を重視した設計になっています。
園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)は琉球王国の聖地のひとつで、国王が旅に出る際必ず拝礼した礼拝所でした。
第二尚氏王統・第3代王の尚真のとき、1519年に園比屋武御嶽が造られています。
首里城ヘのアクセス・行き方ですが、沖縄都市モノレール線(ゆいレール)の場合、終点「首里駅」から徒歩約15分、またはバスで約3分となります。
車の場合には地下駐車場などが整備されています。
下記の地図ポイント地点が地下駐車場の入口となります。
また、首里城周辺に、民間のコインパーキングなども点在しますので、金城町石畳道など街並みを散策しながら楽しむのも良いです。
ちなみに、首里城から金城町石畳道に行く場合には、坂道・階段を下がっていくような感じですので、戻るとにるとちょっと疲れます。
金城町石畳道など首里城で見ておきたい観光ポイントも、当方のオリジナルGoogleマップにまとめてありますので、歩きのカーナビ代わりに使ってみて頂けますと幸いです。
首里城の歓会門、木曳門、久慶門などの無料区域は朝8時のオープンで、有料区域(正殿・奉神門・南殿・番所・書院・鎖之間・黄金御殿・寄満・近習詰所・奥書院・北殿)は朝8時30分から開園です。
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世界遺産にもなっていることから年間280万人が訪れる沖縄本島で一番の観光スポットでもあり、午前中は観光客が多くて混雑する場合があり、レストランや売店も賑わいます。
下記は、首里城・奉神門が開門する際の儀式を撮影した動画「首里城」の御開門式(うけーじょー)です。
首里城の観光所要時間は60分~90分程度となります。
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