吉野ケ里遺跡(よしのがりいせき)は、九州・佐賀県にあり、国の特別史跡に指定されています。
特別史跡に指定されている古い時代の史跡は、静岡の登呂遺跡、青森の三内丸山遺跡、秋田の大湯環状列石、長野の尖石遺跡・与助尾根遺跡、長崎にある原の辻遺跡などありますが、この吉野ケ里遺跡には大規模な環濠集落(環壕集落)であったことが発掘調査からわかっています。
なぜ、環濠集落(かんごうしゅうらく)が作られるようになったのか?
また、1989年に国営吉野ケ里歴史公園として公開され、数ヶ月で100万人以上が訪れた「吉野ヶ里遺跡」のスゴイところなどをご紹介したいと存じます。
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吉野ケ里遺跡は、脊振山地より南側から有明湾へと繋がる、なだらかな丘陵地帯にあります。
公園として見学できるエリアの面積は、約96.9ha、東京ディズニーランド2つ分くらいの広さでしょうか?
ハウステンボスよりも大きいです。
縄文時代の遺物も発掘されていることから、縄文時代からこの辺りには日本人が住んでいたようで、だんだん定住するようになったと考えられています。
そして、稲作が伝わり弥生時代の前期、人口も増えるとムラができ始め、それが大規模な集落へと発展しました。
そして弥生時代中期~後期(西暦200年頃)の環濠集落跡が発掘されたと言う事になります。
環濠集落と言うのは、簡単に言うと、集落の周りを「堀」で囲んだものとなります。
堀の役割としては、排水・部外者の侵入防ぐなどの目的が考えられますが、恐らくは外敵から集落を守るための防御目的であったと推測して良いでしょう。
狩猟民族だったころには、いわゆる「財産」「所有物」と言うものはほとんどありませんので、何か他人から狙われると言う事はあまりありません。
しかし水田にて「稲作」を行うと、その土地に1年中住む必要があり、収穫した「米」(コメ)が村の「財産」となります。
どこの集落や村も、1年間食べられる十分な食料が手に入れば良いのですが、飢饉・自然災害など、一部の土地では収穫が少なかったりすると問題が発生します。
要するに、食糧不足に陥ると、周りの村を襲撃して、食糧を奪おうとと考えてしまうのです。
戦争の始まりですね。
生きていくためには、背に腹を変えられないと言う事になるのですが、攻撃を受けたほうは、たまったもんではありません。
そのため、村・集落全体を「防御」する目的で、吉野ケ里遺跡のように「堀」を巡らせて、環濠集落を形成するようになったと考えられます。
実際問題、弥生時代の全国各地の遺跡からは、骨に刀傷などがある人骨、すなわち戦闘で命を落としたと考えられる墳墓も、多数発見されていますので、まさに「戦乱」の時代であったとも考えられます。
その戦乱を象徴するように、環濠集落じたいは愛知県の朝日遺跡や、神奈川県でも神崎遺跡など、九州から西日本を中心にいくつも出土しています。
堀があると言う事は、攻撃する側からしては、大変そうだなと言う事で、戦争の抑止力の効果もあったと存じます。
また、奈良県には、昔のまま現存して、今でも人々が生活している環濠集落が、少なくとも12箇所ありますので、環濠集落は、特別、珍しいと言う訳ではありません。
更に、弥生時代中期から後期では、どちらかと言うと稲作に適している平地に築かれる環濠集落以外にも、わざわざ標高の高い場所に集落を形成する「高地性集落」(こうちせいしゅうらく)も見受けられます。
山頂部や斜面に作られた集落である高地性集落も、攻撃を受けた側が、生き残るための知恵であったと推定されていることから、それだけ、食料などをめぐった戦争も頻繁にあったのだろうと考えられます。
そのような戦乱があったと言う記述が魏志倭人伝にあります。
卑弥呼が邪馬台国を治める以前、倭国は小さな国どおしが毎年のように攻撃していたと言う「倭国大乱」の記述があるのです。
そして、吉野ケ里遺跡がなぜ注目されるのか?と申しますと、その「広さ」です。
大規模なんですね。
竪穴式住居、高床式住居、祭祀が行われる主祭殿、東祭殿、斎堂、食料を保管する高床式倉庫、貯蔵穴、土坑、青銅器製造の跡、大規模な墓地なども発掘されています。
人骨の中には、矢じりが刺さったままのもの、首から上が無いものなどがも見つかっていますので、まさに戦争があったことを物語っています。
卑弥呼(ひみこ)は約30の国からなる倭国の都を邪馬台国(やまたいこく)にしたとありますが、その邪馬台国はどこにあったのか?
長年、近畿説・九州説など論争が絶えませんが、この佐賀の吉野ケ里遺跡は、1982年~1986年の発掘調査にて、大規模な環濠集落であることが判明し、にわかに「邪馬台国は吉野ケ里遺跡だったのか?」と注目を浴びるようになったのです。
そのためなのか?、日本100名城(88番)にも選定されています。
邪馬台国の九州説期待の星・吉野ヶ里遺跡と言う事ですが、先に結論を申し上げますと、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国であったと言う証拠は見つかっていません。
魏志倭人伝に記されたいる邪馬台国の様子を彷彿とさせる遺跡であることは言えますが、他にあったであろう遺跡も類似していた点は多かったはずです。
とは申しても、日本を代表するような弥生時代の史跡が吉野ヶ里遺跡であることは疑いの余地もありません。
しかし、邪馬台国がココだったと言う可能性はあっても、他にも未発見・未発掘の遺跡はたくさんあるでしょうし、断定は難しいと言えるでしょう。
そして、弥生時代が終わりを迎えるころに、吉野ヶ里の集落は突然姿を消します。
集落を囲っていた堀に、生活に使用していた土器などを、大量に捨ててあるのです。
敵国に襲撃されたのであれば、土器を捨てるような余裕はなかったと考えられますので、恐らくは、自らの意思で「移住」を始めたものと推測されています。
古墳時代に入ると、前述している高地性集落も消滅していますので、戦乱の世は収まったと言う事でしょう。
もっと、稲作に便利な低地に水田を開発し、コメの生産性を高める方法を優先するようになったと言えるでしょう。
食べ物に困らなくなれば、隣の村を襲う必要もなくなるわけですからね。
吉野ケ里遺跡がある場所は、そもそも、佐賀県が大きな工場団地として造成する予定でした。
しかし、遺跡が出たため、計画は大幅に縮小され、ほとんどの土地が保存・公園化されたのです。
とにかく広いです。
ふと感じたのは、このように貴重な遺構を未来永劫残すことは非常に喜ばしいことだと存じますが、日本の歴史約2000年の間としても、全国各地に他にも様々な遺跡などは保存される傾向があります。
単純には当てはめられませんが、これからの日本人の歩みによっては、新たに「遺跡」として認定されるものも、たくさんあるでしょうから、1万年後、2万年後は、日本に限らず世界は「遺跡だらけ」になっているような気もしなくもありません。
もちろん、そこまで人類が地球で繁栄できているかはわかりませんし、憶測の話になってしまいますが、遺跡に囲まれて、住む場所が限られたとしても、それはそれで、非常に興味深い未来の姿のような気がいたします。
末永く、日本人が安心して暮らせる、平和な世の中が続くことを願うばかりです。
さて、吉野ケ里歴史公園への行き方・アクセスですが、電車の場合、JR長崎本線「吉野ヶ里公園駅」東口から約700m、徒歩10分でメインゲートとなります。
クルマの場合には、長崎自動車道の東脊振ICから約5分。
駐車場はいくつかありますが、東側がメインとなります。
下記の地図ポイント地点が、540台駐車場の入口です。
地図は毎度ですが、縮尺を変えてご覧願います。
吉野ケ里遺跡は広いですので、全部見ようとすると数時間要します。
建物が復元されているところなど、要所だけでしたら約60分~90分程度が見学所要時間となります。
コインロッカーや、車椅子・ベビーカーの無料貸し出しもあります。
コインロッカーに入らない大きな荷物も、インフォメーションで預かってくれます。
毎年、春には桜もキレイですので花見もできますし、ゴールデンウィークには、無料開放日(無料入園日)もあります。
また年間を通じて、様々なイベントも開催されていますので、ぜひ訪れてみて頂ければと存じます。
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