薬師池公園(やくしいけ-こうえん)は、東京都町田市野津田町にある特殊公園で、新東京百景、日本の歴史公園100選、東京都指定名勝に指定されています。
この辺りの多摩は、かつて馬の生産地でもあり、湧き水(水源)と池があちこちにありました。
この薬師池も、水源からの貯まった池で福王寺池(ふくおうじためいけ)とも呼ばれていました。
戦国時代の1577年に、野津田の武藤半六郎が八王子城主・北条氏照に対して、水田用の「ため池」を作る許可をえて、造営されたのがこの薬師池と言われています。
実際に、1590年に完成したと言います。
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薬師池がある場所は谷戸になっており、丘陵地からの小さな流れをせき止めて池にするのには、便利な場所だったようです。
そして、北側の鶴見川に向けて緩やかな下りになっており、水田が広がっていました。
しかし、江戸時代1707年の富士山噴火では、ため池が火山灰を含んだ泥砂で埋まります。
大塚村、小山村、高ヶ坂村などの農民によって、堀リ返すのに3年間掛かったと言いますので、当時の苦労もいかばかりかと存じます。
1817年にも再び泥砂で埋まり、アシが生い茂る状態になってしまったようですが、このときも野津田村の農民かせ、池を堀り返しました。
水が豊かな場所には、自然が残り、野生の生物も豊富なことから、1976年(昭和51年)には薬師池公園として整備され、市民の憩いの場にもなりました。
池の西側にある山の上に、野津田薬師堂があることから「薬師池」と呼ばれるようになったようです。
この薬師堂は、福王寺が所有していたもでしたので、江戸時代まで、池の名称は「福王寺溜井」だったと言うことになります。
薬師池の大蛇
そんな薬師池には大蛇(だいじゃ)の伝説があります。
天保の飢饉といえば、江戸時代の大飢饉の一つに数えられ、各地で多くの人々が飢餓に倒れてゆきました。
原因は長雨による不作であったが、天保7年(1836年)は特に酷く、5月の梅雨から雨がひかず、7月、8月と台風による大雨も重なり、作物は実りをつけなかったそうです。
この長々と続く大雨のため、薬師池も満水が続き、堤防はいつ決壊してもわからないほどとなっていました。そんなある日、野津田村の百姓で弥兵衛さんという人が雨の中、田んぼの見回りに出掛けていきました。
薬師池の水門のところまで来る頃には暮れ六つの鐘が鳴り、辺りはまもなく闇夜に包まれようとしています。
ふと、薬師池のほうに目をやると、向こうのほうからこの辺りでは見たことのない美しい娘が蛇の目傘をさして歩いてきました。
娘は弥兵衛さんのところまで来ると、「ちょっとお尋ねしますが、由木の長池(現在の八王子市別所あたり)に行くには、どのような道順をたどれば良いのでしょうか?」と澄んだ声で物腰も柔らかく尋ねてきました。
弥兵衛さんは丁寧に道順を教えてあげると、娘は厚くお礼を述べて立ち去っていきました。
彼もそのまま我が家のほうへと足を進めましたが、こんな雨の中、しかも日暮れも間近な刻限に長池まで行くのは難儀だろうと、今の娘のことが気になり思わず振り向いてしまいます。
と、その瞬間、弥兵衛さんは驚きと恐怖で腰を抜かしてしまいました。
そこには、今教えたばかりの坂道を胴回りが一尺もある大蛇がすべるような速さで由木の長池を目指して進んでいく姿があったのです。
ほうぼうの態で家に帰り着いた弥兵衛さん、「なるほど、先ほどの娘は弁天様の化身であったか」と考えました。その日以来、薬師池の水量も次第に減り、堤防の決壊も難を逃れたといいます。
その後も薬師池の主の大蛇は長く住み着いていたといわれ、昭和の初めごろまでは銀杏の大木にとくろを巻いたり、枝わたりをする姿が見られたと云われています。
昔話の中に出てくる「由木の長池」は、長池でして、現存しており、こちらも公園整備されていすま。
ちなみに長池には、もっと昔の時代となりますが、浄瑠璃姫の伝説があります。
現在の薬師池公園には、梅、花菖蒲、大賀蓮、桜、紅葉などの花々も四季折々楽しめます。
また、池のほとりには梅林もあり、江戸時代の古民家(旧永井家住宅・国指定重要文化財)、旧荻野家住宅(東京都指定有形文化財)が移築されており、福王寺薬師堂(野津田薬師堂)への参拝も可能です。
薬師池公園には有料駐車場もありますが、土日祝は結構混雑する場合があります。
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