新選組副長から榎本武揚の旧幕府脱走軍に転じて蝦夷地に渡り、箱館戦争で戦死した土方歳三の「北海道の足跡」を辿ってみました。
仙台を出航した旧幕府軍の榎本艦隊は、明治元年(1868年)10月に鷲ノ木に上陸します。
この時、会津戦争で敗れた土方歳三ら新選組は、仙台にて榎本武揚ら旧幕府軍に合流し、北海道に向かったのです。
そして、土方歳三は一軍を任されて、鹿部を経て、川汲峠にて箱館府軍を敗走させました。
川汲は「かっくみ」と読みますが、読めないですよね?
川汲峠の戦い
北海道に上陸した土方歳三にとっての初戦も、見事な勝利でした。
川汲温泉ホテル(川汲温泉旅館)の敷地内(駐車場脇)に箱館戦争川汲戦戦死者慰霊碑が建立されています。
川汲温泉ホテルがある場所が、500名を率いた土方隊の宿営地だったそうで、宇都宮城の戦いにて、足にケガしていた土方歳三も、傷と疲れを癒すため川汲温泉に入浴したと言われています。
実際の戦場は、川汲峠のトンネル付近にある「台場山」が旧幕府軍の陣地であったようです。
当初は、川汲温泉に日帰り入浴しようと寄らせて頂きました。
わざわざ、定休日も外して訪問させて頂いたのですが、とても営業しているようには見えなかったため、慰霊碑の撮影だけとなり、温泉ソムリエの小生としてはかなり心残りです。
その後、土方歳三らは湯の川方面へと函館に進軍しています。
各訪問地へのアクセス・行き方などは、当方のオリジナルGoogleマップにて、駐車場の場所など細かくしるししてありますので、よければ、ご利用ください。
スマホで見れば、カーナビ代わりにもなります。
ただし、レンタカーやクルマの運転中は、安全運転をお願い申しあげます。
ウインカーは早めに出しましょう。
松前城の戦い
五稜郭を占拠した旧幕府軍は、土方歳三を総督として、彰義隊・額兵隊・衝鋒隊など700名を松前に派遣し、松前城を攻略します。
この時、松前藩主一族は、突貫工事で完成させていた内陸部の新城「館城」(だて-じょう)に移動していましたので、抵抗も弱かったようです。
海からは蟠竜など榎本艦隊が艦砲射撃を行い、数時間で松前城を土方歳三らは陥落させています。
その後、江差へと進軍しました。
開陽丸と嘆きの松
大滝峠にて松前藩兵を撃退すると「開陽丸」から艦砲射撃の援護を受け、土方歳三隊は江差を占領しました。
しかし、この夜、天候が急変し開陽丸が座礁してします。
開陽丸は、旧幕府軍にとっては一番大きな軍艦であり、救出のため箱館から回天丸と神速丸が江差に到着します。
しかし、神速丸も座礁し、旧幕府軍は4隻中2隻失うことになりました。
詳しくは下記の記事にて触れていますので、ご覧願えますと幸いです。
・開陽丸とは~江戸幕府のオランダ製最新鋭軍艦 江差で喪失した理由
現在、江差には開陽丸が復元されています。
・えさし海の家「開陽丸」の見どころ~江差の観光スポット瓶子岩も
江差も占領した旧幕府軍は、蝦夷地を平定し、年末に五稜郭にて箱館政権を樹立され、土方歳三は陸軍奉行並となっています。
五稜郭
函館の五稜郭はあまりにも有名ですし、詳しい解説は別ページもありますので、ここでは省きますが、土方歳三は何度も五稜郭で軍議に参加したと存じます。
函館市内にあり、観光スポットでもありますので、ぜひ、訪れてみて頂けますと幸いです。
・五稜郭と箱館戦争とは~蝦夷共和国と幕末ロマンに想いを寄せて
五稜郭タワーは史跡と言うわけではありませんが、土方歳三の展示も豊富ですので、付け加えさせて頂きます。
五稜郭に脇にある「五稜郭タワー」の内部は、新選組や五稜郭の資料館のようにもなっています。
そして、アトリウムに「土方歳三ブロンズ像」がありますので、新選組や土方歳三ファンの方は必見です。
もちろん、展望フロアからは星の形をした五稜郭の姿も良くわかります。
五稜郭タワーから五稜郭に通じる方向には、慰霊碑も新設されていました。
時間があれば、ぜひ、五稜郭タワーも訪れてみてください。
五稜郭と五稜郭タワーは、別のページにて詳しくご紹介致しております。
・五稜郭タワーや五稜郭に一番近い駐車場は? 函館観光名所の攻略法
湯の川温泉
函館空港からもほど近い「湯の川温泉」には、土方歳三も入浴したと伝わります。
ただ、無色透明の温泉は新しい温泉でして、昔ながらの「黄土色」(土色)の温泉に浸かったようでして、濁り湯がある温泉になると、例えば「平成館海羊亭」の黄土色した温泉と言う事になるかと存じます。
なお、幕末・維新とは関係ありませんが、湯の川にある「函館市営熱帯植物園」には「ニホンザル」がいます。
夏は気温も暑いので入りませんが、寒い冬に、お猿さんは「温泉」に浸かっています。
もし、冬季に函館を訪れた際には、ぜひ、お立ち寄りください。
湯の川温泉の各旅館はこちらでご紹介もしています。
・「湯元啄木亭」「湯の川観光ホテル祥苑」「平成館海羊亭」湯の川温泉のオススメ温泉旅館
二股口の戦い
翌年、反撃に出た新政府軍は不意を突いて乙部に上陸します。
これを受けて、土方歳三は衝鋒隊・伝習隊の滝川充太郎や大川正次郎など300名を率いて、二股口守備のため進軍して台場山に布陣しました。
二股口の戦いで、土方歳三や瀧川充太郎らは、何度も駒井政五郎ら新政府軍を撃退しており、約2週間、新政府軍を足止めしています。
新選降軍の方が兵力・武器ともに圧倒していますので、この二股口での土方歳三隊の活躍は目を見張るものがあります。
しかし、土方歳三の上官である大鳥圭介が駆けつけて指揮した木古内の戦いでは敗走します。
続いて大鳥圭介は矢不来の戦いでも多数の死傷者を出し、総崩れとなります。
ただ、大鳥圭介隊の敗走は、新政府軍が海から艦砲射撃も行ったようですので、激しい攻撃にさらされた訳です。
これにより、函館への退路を断たれる可能性が出たため、土方歳三隊は、五稜郭への撤退を余儀なくされました。
ちなみに、伝習隊の滝川充太郎と大川正次郎は、のち日本陸軍に入隊し、西南戦争では西郷隆盛らと戦いました。
滝川充太郎(滝川具綏)は、人吉城の戦いに参加したあと、熊本県球磨郡の瀬戸山にて戦死しています。
二股口や木古内も含めて当方のオリジナルGoogle地図にて各史跡の場所がわかるようにしてあります。
ちなみに「城めぐり」では、2017年7月期の「二股口台場山城主」にもなれました。
函館・弁天台場
五稜郭同様に、弁天台場(べんてんだいば)は、もともと幕末に江戸幕府が築いた陣地で、高さ11mほどの石垣・土塁で囲まれている中に、大砲15門を配備していたと言います。
五稜郭建造にも携わった武田斐三郎の設計で、工事は松川弁之助などが8年かけて軍事要塞を築きました。
弁天台場は、函館湾に侵入する新政府軍の艦船に攻撃を加える、いわば最前線であり、主に新選組の隊士が守備をしました。
土方歳三は、蝦夷共和国において陸軍奉行並の役職となっており、陸軍奉行・大鳥圭介を補佐する立場であり、既に新選組ばかりに掛かりっ切りになることはできませんでしたが、弁天台場へも何度も訪れていたと記録にもあります。
島田魁もここで戦ったようですが、新政府軍が函館に総攻撃開始した際には、箱館奉行・永井尚志が弁天台場の指揮を担当しています。
5月11日、函館湾海戦となり、新政府軍の朝陽を撃沈して砲弾を射ちつくした蟠竜が、近くに座礁し、乗組員は上陸すると弁天台場に合流しています。
新政府軍の艦艇である甲鉄、春日により艦砲射撃を受けるなど、新政府軍の猛攻により補給路も絶たれた弁天台場は兵糧も無くなります。
そのため、弁天台場の240名は、五稜郭の降伏に先立ち、明治2年5月15日降伏しました。
このように、弁天台場は新選組最後の地でもあります。
弁天台場に関しては下記にて詳しく掲載も致しております。
・函館・弁天台場とは~土方歳三が救援しようとした新選組最後の地
土方歳三最期の地碑
函館戦争の際に、土方歳三が狙撃されて倒れたとされる、一本木関門跡に近い若松緑地公園に「土方歳三最期の地碑」(ひじかたとしぞう-さいごのちひ)があります。
1869年(明治2年)5月11日、新政府軍は、箱館への総攻撃を開始し、島田魁らが守備した弁天台場が包囲され孤立します。
そのため、土方歳三は五稜郭から僅かな兵を率いて救出に向かい、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役・大野右仲に命じて進軍させました。
この時、土方歳三は一本木関門を守備しつつ指揮を執ったようです。
鬼のように戦い、馬上で指揮したと言いますが、腹部を銃弾で貫かれて落馬したと言い、旧幕府軍の者が急いで駆け付けた際には、すでに絶命していたとされます。
ここがかつての一本木関門で、戊辰戦争の際に、土方歳三はこの近くで戦死した終焉の地と言われています。享年35。(場所は諸説あり)
ひっそりとした小さな公園で、一本木関門は復元されたものです。
かつて、一本木関門のすぐ脇は、函館湾が迫っていたそうです。
土方歳三最期の地碑には、土方歳三ファンの方により、1年を通じて花が添えられていますが、歴史の重みを感じます。
土方歳三、最期の雄姿を思い浮かべますと、厳粛な気持ちになりました。
クルマの場合、西側にある総合福祉センターの駐車場を拝借できます。
函館駅から徒歩だと約15分くらいの距離です。
新政府軍は、土方歳三の遺体や首を散々探したようですが、ついに発見することはできなかったようです。
素地方歳三が戦死した場所には諸説あり「異国橋」であると言う説も有力になりつつありますが、もはや、確かめるすべはありません。
遺品は、市村鉄之助の手によって、東京・日野宿の佐藤彦五郎の元に遺髪と写真が届けられました。
ちなみに、土方歳三の墓は、東京・日野の石田寺で、こちらも参拝者が絶えません。
碧血碑
碧血碑(へきけつひ)は、函館山の山麓にある箱館戦争における旧幕府軍の戦死者を供養する慰霊碑です。
すなわち、土方歳三と共に戦った仲間がここに眠っています。
五稜郭造営などにも携わった柳川熊吉(やながわ-くまきち)は賊軍となった旧幕府軍の戦死者を仮埋葬したため、新政府軍に捕まり死刑宣告となります。
しかし、軍監・田島圭蔵の助命により釈放されるとも、柳川熊吉は函館山のこの土地を購入し、明治8年(1875年)5月に建立されましたが、土方歳三や中島三郎助などをはじめとする約800人の戦死者を弔っています。
碑石の文字は大鳥圭介のものだとも言われています。
のち函館に赴任した四稜郭の司令官・松岡四郎次郎は谷地頭の八幡山近く(碧血碑の近く)に別荘を構えたと言います。
また、柳川熊吉も、この近くに住み、碧血碑の管理を務め、大正2年に死去しました。享年89。
碧血碑の近くに、熊吉の功績を讃える記念碑があります。
柳川熊吉は、榎本武揚ら箱館戦争の生き残りとも交流を持ったと言います。
上記は碧血碑の入口です。
称名寺・土方歳三の供養碑
函館の観光スポットである「元町公園」から北西にある函館・称名寺(しょうみょうじ)に、鬼の副長と恐れられた新選組副長・土方歳三(ひじかた-としぞう)の供養碑があります。
称名寺は、江戸時代に入った1644年に伊勢の僧侶・円龍が、亀田村(函館市八幡町)に阿弥陀庵を開いたのが始まりです。
1690年に松前城近くにあった浄土宗光善寺の末寺となって、寺号を称名寺としました。
鳥羽伏見の戦いからに開戦された戊辰戦争の箱館戦争時に、この場所は、新選組残党の屯所があったそうです。
土方家の菩提寺である東京都日野市の高幡不動尊(金剛寺)の過去帳に、函館称名寺に供養碑を建てたとあります。
その後、移転や何度も火災にあい、1881年(明治14年)に現在の場所に移転しました。
この場所は、幕末に函館が開港した際、イギリスなどの外国領事館が最初にあった場所でもあります。
そのあとも称名寺は火災に2度あっていることから、昭和4年に再建された本堂は鉄筋コンクリート製です。
このように移転・火災があったため、当時の供養碑は失われたため、現在の供養碑は昭和48年に建てられたものとなります。
境内にかつて墓標があった、新選組隊士である、野村義時(野村利三郎?)、栗原仙之助、糟屋十郎、小林幸次郎の4名の名も刻まれています。
他にも境内には、初代箱館館主・河野政通の供養碑、豪商・高田屋嘉兵衛の顕彰碑などがあります。
アクセスですが、クルマの場合には、称名寺の境内に参拝者用駐車場があります。
ただし、付近には中学校もありますので、平日訪れる場合には安全運転にご配慮賜りますと幸いです。
このページでご紹介した史跡がある場所は、当方のオリジナルGoogle地図に、すべて明記しております。
駐車場の場所も印していますので、スマホでご覧頂ければ、カーナビ代わりにもなります。
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