氣比神宮(気比神宮)とは
氣比神宮(けひ-じんぐう)は、気比神宮とも書きますが、福井県敦賀市にある神社で、越前国の一宮で、地元では「けいさん」の愛称で親しまれています。
京都や名古屋など近畿から北陸に入る際には、この敦賀を経由して北陸道至ることから「北陸道総鎮守」と称しています。
敦賀(つるが)の地は古く「角鹿」と呼ばれていました。
古事記の仲哀段では、角鹿の仮宮にいた太子(応神天皇)に、気比(けひ)大神が奉ったイルカの血が臭かったため、血浦(ちうら)と言ったのが、都奴賀(つぬが)になったとあります。
日本書紀では、垂仁天皇の王子・都怒我阿羅斯などが、笥飯(けひ)浦に来着しましたが、額に角があったので、この地を角鹿(つぬが)と称したともあります。
気比という地名は「食(け)の霊(ひ)」が由来とするようです。
その後、701年、大宝律令にて「敦賀」と改称されました。
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氣比神宮(気比神宮)の主祭神は、3柱で下記の通りになります。
伊奢沙別命(いざさわけのみこと)は「気比大神」または「御食津大神」とも称さ、食べものを司る神とされます。
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は第14代天皇です。
神功皇后(じんぐうこうごう)は仲哀天皇の皇后にあたります。
神職は角鹿氏(つぬが-うじ)が歴任しており、飛鳥時代の大宝2年(702年)に社殿造営した際に、仲哀天皇・神功皇后を本宮に合祀したとあります。
そのころから、渤海使(ぼっかいし)も、日本海を渡って敦賀から上陸したようで、古くから敦賀は栄えていた模様です。
このように「古事記」や「日本書紀」に氣比神宮の名が見られますので、氣比神宮(気比神宮)の創建も古い事でしょう。
戦国時代には24万石相当の規模を誇ったと言いますで、大きな大名並みの勢力だったようです。
織田信長が越前朝倉氏を滅ぼした際に、社殿のほとんどを焼失し衰退しましたが、江戸時代になって結城秀康が福井城に入ると100石が寄進されて再建されました。
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敦賀はロシア・ウラジオストックへの国際航路もあり、1945年(昭和20年)、太平洋戦争の際に「敦賀空襲」でも大きな被害を受けました。
B-29が約100機来襲し、日本海側としては初の空襲だったため、衝撃も大きかったようですが、氣比神宮(気比神宮)も旧国宝の本殿ほか社殿の多くを焼失しました。
ただし、大鳥居は被害を免れていおり、江戸時代前期の正保2年(1645年)の造営で、国の重要文化財に指定されています。
正面の額は有栖川宮威仁親王の御染筆だそうで、高さは約11mもあり、春日大社(奈良県)・厳島神社(広島県)と並んで日本三大木造大鳥居のひとつになっています。
境内には「氣比の長命水」と呼ばれる湧水があり、無病息災、延命長寿のパワースポットにもなっています。
ご利益としては、家内安全、商売繁盛、航海安全などです。
開門は朝6時~17時ですが、無料でお参りできる神社で、御朱印もあり、初詣も混雑するほど大人気のようです。
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氣比神宮(気比神宮)への交通アクセス・行き方としては、JR北陸本線「敦賀駅」から徒歩約15分となります。
氣比神宮(気比神宮)の駐車場は、ちょっとわかりにくいので、当方のオリジナル地図にて入口をポイントしておきます。
4車線道路のため、右折は危険です。
左折で入れると良いです。
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