←常楽寺と大姫の墓【北条政子ゆかりの地を散策】大船編からの続きです
さて、北鎌倉駅から1駅である鎌倉駅までやってきて、次は「源頼朝の墓」へと向かいました。
歩くと20分くらいの距離ですが、路線バスの本数も結構あるので、行きだけはバスで行く事にしてみました。
JR鎌倉駅の東口5番乗り場の鎌倉36「ハイランド循環」又は、4番乗り場の鎌倉20「大塔宮(八幡宮)」行きのバスに乗ります。
バスの本数は多いです。ただし、八幡宮前の交差点を曲がるまでの若宮大路はかなり渋滞しまして、歩いたほうが早いと思ったくらいです。
下車するのは、岐れ路のバス停です。
バス停を降りたら北へと延びる道を真っ直ぐに進めば、白旗神社が見えてきますが、この付近はその昔「鎌倉幕府」があった場所で、地元では「大蔵幕府」と呼ばれています。
鶴岡八幡宮近くの白旗神社とはまた違う神社でして、昔は法華堂があったので法華堂跡とも言います。
1213年の和田合戦では、幕府の建物が全焼し、将軍・源実朝と北条義時は戦火を逃れて法華堂(現在の白幡神社)に逃れています。
また、1247年6月5日、宝治の乱では、館を攻められた三浦泰村は三浦一族を率いて法華堂に籠ります。そして、北条時頼の兵に攻められ、三浦泰村・三浦光村ら三浦一族と、協力していた島津、毛利など500名の武士が、この法華堂で自刃して果てました。
なお、文化庁の調査では、この法華堂跡(白旗神社)の下に源頼朝の墓があった可能性もあると言う事で、2000年からは官報で白旗神社も含めて墓域とされています。
※各写真はクリックすると拡大します。
大倉山の南につくられた50段くらいの階段をちょっと登って行ったところが、源頼朝の墓です。
バス停から歩いて5分くらいだと思います。
もうちょっと大きいと想像していたのですが、鎌倉幕府を開いた征夷大将軍の墓にしては、意外とこじんまりとしていた感じがしました。
なお、法華堂の話に戻りますが、元々法華堂とは、1189年に源頼朝が聖観音像を本尊として創建した持仏堂が最初で、この源頼朝の墓がある場所(階段の上)にあったそうです。
その後、源頼朝の菩提を弔う為に「法華堂」と改名されたとの事で、更にその後、1247年の宝治合戦のあとに、現在白旗神社がある現在の場所に法華堂が移されたと考えられています。
北条政子も何度も訪れたことがあったのだと思ったのですが、どっこい、この墓標は、子孫とされる薩摩藩主・島津重豪が江戸時代に建てたものであると言われています。
島津重豪の先祖である島津忠久は源頼朝の子ともいわれている鎌倉御家人です。
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源頼朝の墓の場所は、下記の地図ポイント地点となります。
有料駐車場はバス通りのバス停付近にありましたが、非常に高額です。
さて、このあとは、北条政子の墓に赴くべく、徒歩で向かいました。
上記は、途中にあった西御門跡です。
西御門(にしみかど)と言うのは、鎌倉幕府(大倉幕府)の西門と言う事です。
途中、鶴岡八幡宮の境内に入って、横切る形で向かいました。
しかし、鎌倉も西洋人の観光客が多く訪れています。
大変ありがたいことですね。
そして、西へと進みまして、いよいよ北条政子の墓がある寿福寺に到着しました。
なお、鎌倉の駐車場は2時間=2000円と言う所もあり大変高いです。
それだけでなく、八幡宮付近は「渋滞」もします。ただの渋滞では無く、特に動かない渋滞です。
そのため、特に土日祝の場合には電車で訪れるのが賢明です。
→寿福寺と北条政子の墓は次ページをご覧願います。
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