はりまや橋には、きちんとした漢字の表記があり「播磨屋橋」(はりまやばし)と書きます。
山内一豊が高知城を築城すると、当然、掛川城下から移住してきた家臣らが、高知城下に住むようになります。
人が多く住むところは、商店なども多くなりますので、ここには播磨屋と櫃屋(ひつや)といった豪商が軒を構えました。
しかし、播磨屋宗徳の播磨屋本店と、櫃屋道清の櫃屋本店は「堀」で隔てられていて、行き来が不便だったため、私費を投じて作られたのが、はりまや橋(播磨屋橋)の由来です。
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高知県の民謡「よさこい」に、下記のような歌詞があります。
土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい
これは幕末の土佐出身の僧侶・純信(じゅんしん)が、京での修行のあと高知に戻って、五台山竹林寺脇坊の住職となります。
そして、純信が37歳のとき、鋳掛屋の娘で17歳の大野馬と禁断の恋に陥ります。
僧侶は妻帯が禁止されていたのです。
なお、若い僧侶・慶全も、鋳掛屋の娘・お馬に一目ぼれしており、はりまやばし橋にて「かんざし」を購入してプレゼントしたとされています。
しかし、お馬は、純信に心を惹かれており、見向きもしてくれなかったことから、慶全は嫉妬にかられて「かんざしを贈ったのは純信じゃ」と触れ回ったと言います。
たちまち、噂は高知中に広まり、思い余った純信とお馬は、安政2年(1855年)5月19日深夜に「駆け落ち」を試みました。
笹口番所の裏道から阿波に入って、讃岐琴平の旅籠に宿泊していたところを関所破りの罪で捕まってしまいました。
そして、9月に、高知城下の晒し場で面晒しの刑(晒し者)となり、国外追放処分となります。
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純信は伊予に寺小屋を開き、晩年には別の女性と結婚したとされています。
お馬は安田村の旅館に奉公に出たあと、須崎にて庄屋預りとなり、のち大工の寺崎米之助と結婚しており、このように2人が結ばれることはありませんでした。
この純信とお馬の悲話は「浄瑠璃」となって流行したことから、このように有名な話となって伝わっているのです。
現在でも「はりまや橋」の辺りは、高知で一番の賑わいとなる商店街になっており、大丸百貨店やホテルも周辺にあり、多くの人が買い物などを楽しんでいます。
今、赤く塗られて高知の観光名所にもなっている「はりまや橋」は、全国からイメージを募集して、江戸期のはりまや橋として1998年に再現されたものとなり、堀も「はりまや橋公園」として整備されており、高知のオアシスとなっています。
はりまや橋の駐車場は、近隣のコインパーキング利用か、中央公園の地下駐車場利用となります。
下記の地図ポイント地点は、はりまや橋がある場所です。
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