←松山城~威風堂々と構える見事な構造も敵を欺く芸術的防御からの続きです。
松山城の天守を見学したあと、長者ヶ平から県庁裏登山道にて、二之丸史跡庭園付近まで降りて参りました。
上記写真の石垣脇をちょっと進んで、振り返りますと下記のような感じです。
松山城の二の丸も、大変良い雰囲気ですね。
下記は多聞櫓です。
下記が、二之丸見学の入口です。
入って階段を登り、右手に拝観受付がありますので、100円をお支払して内部に入ります。
松山城二之丸史跡庭園は、松山藩主の表御殿と、藩主家族の住居である奥御殿がありました
北側の四脚御門(下記)が正式な門で、黒門口として松山城へ道が通じていました。
西側の多聞櫓(たもんやぐら)の門が、通用口だったようです。
足軽などの詰所である御徒歩番所、応接座敷である御広間、書院、公式儀礼の間、奥向きの居室や台所、炊事の土間などが建ち並んでいたようです。
ただし、1687年、三之丸に御殿が完成したあと、藩主は三之丸邸に移ったようでして、その後の二之丸邸は世継ぎなどの屋敷として使われたと考えられているようです。
かつて屋敷があった建物の跡は、かなり明確にわかるようになっています。
今は「恋人の聖地」となっています。
恋人の聖地がどういうことか?と申しますと、和服で結婚写真をここ「二の丸」で撮影することができるそうです。
姫路城の西御屋敷跡庭園「好古園」のようですね。
庭園もなかなか立派です。
日影でして、写真移り悪いですが・・・。
下記が、例の「大井戸」で、東西18m、南北13m、深さ9mあります。
でも、見るからに巨大な堀?のように見えますが、これを井戸と呼んで良いのでしょうか?
こんなに大きな井戸は初めて見ました。
なんでも、写真の手前左側は、この湧水が貯まった池?の上に半分くらい「焚火之間」と言う建物が被さるようになっていたそうです。
そして、見える石段の上ったところである一段低い場所が、床下通路跡だそうで、地下通路のような形で水を運搬していたと考えられています。
下記写真は俎石(まないたいし)です。
松山藩主・蒲生忠知(がもうただちか)の話となりますが、子ができず、家名断絶を憂慮して錯乱し、松山城下から妊婦した女性をさらってきては、この俎石の上にくくりつけて、妊婦の腹を裂いて、子が男か女か確かめていたと言います。
ただし、松山藩主が蒲生家から松平家に変わった際に、前領主の評判を落とすために、作り話を創作したのでは?と、愛媛県史には記載されています。
下記は米蔵です。
井戸屋形の先が出入口です。
出入口に戻ってきました。
観光所要時間ですが、1周するのにはまぁ、15分もあれば充分だと思います。
県庁の方に出たところから、二之丸を撮影すると下記のような感じでした。
松山城・二の丸の入口は、下記地図のポイント地点となります。
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